農家の多幸感とは【第1回 “多幸感”という言葉の違和感と可能性】
2025/03/23
全6回にわたって「農家の多幸感」をテーマにお届けします。 農業の現場に身を置く中で感じたこと、考えたことを、回ごとに丁寧に掘り下げていきたいと思います。
「農家の多幸感」という言葉を目にして、あなたはどんな印象を抱くだろうか。
自然の中でのびのびと働く姿、土に触れながら笑顔で育てる家族の様子、作物が実ったときの誇らしさ……。あるいは、「ストレスの少ない生き方」「本当にやりたいことをしている人」など、一般的な“幸せ”のイメージと重ねて想像する人も多いかもしれない。
だが、実際に農業の世界に足を踏み入れ、日々その現場で働いていると、「幸せ」「多幸感」といった言葉があまりにも簡単に使われることに、どこか引っかかりを感じることがある。
私が「多幸感」という言葉に抱いていたのは、最初は違和感だった。
“多幸感”という言葉は、なんとなく甘く、ふわふわしたもののように聞こえる。幸福が“たくさんある”状態。だけど、それって一体どういう状態だろう? ずっと笑っていること? 何も困難がないこと? 苦しみや怒りが一切ないこと?
現実の農業は、そんな理想的な世界とはまったく違っている。
農業を始めてからの15年、私が経験したのは、まさに“現実の塊”のような日々だった。
畑を開墾し、苗を植え、水を与え、手をかけ、祈るように空を見上げる。 雨が多すぎれば根腐れを起こし、足りなければ干からびる。台風が直撃すれば、たった一晩で一年の努力が失われることもある。
虫は容赦なく作物を食い尽くし、病気は一気に畑を覆い尽くす。 市場価格は乱高下し、自分ではどうにもならない経済の波に揺さぶられる。
そんななかで、どうして「幸せ」なんて言えるのか。
むしろ、日々不安と隣り合わせで、眠れぬ夜を過ごしたことも数えきれないほどある。時には「もうだめだ」と思うことすらあるのに。
それでも、なぜか続けている。毎年、また種をまく。希望を込めて土を耕す。
この「それでも続ける」という気持ちの中に、何か説明のつかない“芯のようなもの”があると感じていた。
それは、「楽しいから続けている」という単純な理由ではない。
達成感や手応え。感動や感謝。怒りや悔しさですらも、すべて自分の手で受け止められるという感覚。
その感情の総体が、あるとき「これが多幸感かもしれない」とふと思わせた。
つまり、私にとっての“農家の多幸感”とは、 「何もかもがうまくいく」「常に笑顔で満ちている」状態ではない。
もっと深くて静かな、日々の営みのなかにじわじわと滲み出てくるような感覚。
天候に悩み、収支に頭を抱え、人間関係に揺れながらも、 「でも、今、自分は生きている」と強く感じられる、 その実感の延長線上にある“手応えある幸せ”。
それこそが、多幸感なのではないか──。
この第1回では、主に「言葉の違和感」と「自分自身の気づき」について書いてきた。
次回はもう少し具体的に、「農家が抱える“自由”と“不安”の相反性」について掘り下げていく。
サラリーマンから農家へ転身したとき、私がどんなことに迷い、どこで覚悟を決めたのか。
その実体験を通して、“多幸感”が生まれる背景を、さらに丁寧に見ていきたい。
(第2回へつづく)