【第2回 “自由”の代償と“責任”の重さ──それでも農業を選び続ける理由】
2025/03/24
「農家って自由でいいですね」。
そう言われることがよくある。確かに、会社員のような就業時間はないし、誰かの指示で動くこともほとんどない。自分の判断で作付けを決め、出荷のタイミングを見極め、天気と相談しながら働く。裁量の大きさは、間違いなく“自由”の証だ。
だが、その自由には常に“責任”がまとわりつく。
作物が不作だったとき、価格が暴落したとき、台風で全滅したとき──誰のせいにもできない。選択の自由があるということは、結果に対して自分がすべての責任を負うということだ。農業とは、自由と責任の重さを天秤にかけ続ける職業だ。
私は、サラリーマン生活から農業の世界に飛び込んだ。大きな2つの動機があった。一つは「自由に生きたい」という気持ち、そしてもう一つは自分のこどもたちに“生きる姿勢”を背中で見せたかった。意味の見えない会議資料の作成や理不尽なノルマ、上司からの指示、どこか自分の人生が“誰かのためのもの”のように感じられていた。
会社員時代、子供に『お父さんは何の仕事をしているの?』と問われたとき、うまく説明できない自分がいた。必死に仕事もしていたし、なんらかの充実感みたいなものはあったが、幸福感を感じたことはただの一度もなかった。だからこそ、自分の判断と責任で仕事をし、食を支える農業は、眩しく見えた。
新規就農した当初、最初の数年は本当に孤独だった。自分の土地も道具も足りず、周囲からの目も冷たく感じた。「うまくいくわけがない」と思われていたのかもしれない。けれど、それでも毎日畑に出て、少しずつ1歩ずつ形をつくっていくうちに、自分の中に小さな確信が芽生えてきた。「これが自分の人生だ」と言える何かが、毎日少しずつ蓄積されていった。
だが、実際にその世界に身を置いてみて思い知る。「自由」の裏に潜む、「自己責任の世界」の厳しさを。会社なら失敗してもチームや上司がカバーしてくれることもあるが、農業にはそれがない。就農当時は一人ですべてを担っていた。今では従業員もおり組織的に営農しているが、播種のタイミングや潅水量を少し誤っただけで、その年の売上が何十万、何百万と変わってくる。
収入も、信用も、すべてが自分の判断にかかっている。たった一日の判断ミスが、一年分の努力を台無しにすることすらある。誰かの顔色を見て生きることはなくなったが、誰も守ってはくれないという現実も同時に突きつけられる。
農業は“結果がすべて”、言い訳が一切の意味を持たない世界なのだ。
では、なぜ私たちはそんな不安定な道を選び続けるのか。
それは、“責任を引き受ける覚悟”と引き換えにしか得られない“納得”が、そこにあるからだと思う。
誰のせいにもせず、すべてを自分の手でやり切った先に訪れる、あの独特の達成感。それは、会社での評価や給与の昇給では味わえなかった。朝5時から働いて、泥まみれになって、全身が疲れ切って、それでも夕焼け空を見上げながら感じる「今日もやり切った」という感覚──あれは、他では得られないものだった。
そして、その感覚は日を追うごとに深まっていく。ひとつの作型がうまくはまったとき、従業員の誰かが成長して見違えるような仕事ぶりを見せたとき、お客様から感謝の言葉を受け取ったとき。すべての瞬間に、「これは自分が責任を持ってやってきた結果だ」と言える手応えがある。
自由とは、好き勝手に生きることではない。 自分で決め、自分で動き、自分で責任を引き受けること。 その中にしか得られない幸福が、確かに農業にはある。
それが、自由と責任という両極をみつめながら、私が今も農家という職業を選び続けている理由だ。
次回は、「“儲かるかどうか”の外にある、農家の幸福軸」について書いていく。お金はもちろん大事だ。でも、それだけでは測れない“喜び”が、農業にはある。それを掘り下げていきたい。
(第3回へつづく)