【第5回 “効率”と“無駄”──生産性では測れない価値】
2025/03/27
農業は、しばしば「効率化」の対象として語られる。
どうやってコストを下げるか。 どうすれば収穫量を最大化できるか。 どの作業を機械化・自動化すれば人件費を抑えられるか。
それは当然の視点であり、経営を安定させるには欠かせない。 私自身も、機械やICTを導入し、作業工程の見直しを重ねてきた。生産性を上げる努力は、持続可能な農業を支える土台となる。
だが、すべてを効率で語ろうとしたとき、農業が本来持っていた「感覚」や「手ざわり」が、静かに失われていく気がすることがある。
たとえば、収穫したネギの根と葉を一本一本ハサミで整える作業。
機械で一括処理することもできるが、手作業で形を整え、泥を落とし、一本ずつ確認しながら並べていくとき、そこには“触れること”を通じてしか得られない情報と感覚がある。
太さ、重み、香り、しなり具合──それらは、数値ではなく、指先と目と心で感じ取るものだ。
この「無駄な時間」の中にこそ、作り手の気配が宿る。そしてそれは、目には見えないかもしれないが、食べる人に伝わると信じている。手作業の一瞬一瞬に宿る気配のようなもの。それは品質を左右するというよりも、信頼感を醸す要素のひとつなのかもしれない。
とはいえ、毎年再生産を続けていくためには、一定の収益がなければ成り立たない。人件費や資材費、燃料代の高騰に加え、農地の維持管理や機械の更新といった投資も避けられない。効率化の追求は、ただ楽をするためではなく、次の一手を打ち続けるための“現実的な手段”なのだ。
だからこそ、いつも葛藤している。効率を求めすぎれば、大切なものがこぼれ落ちていく。かといって、手間ばかりかけていては経営が立ち行かなくなる。効率と手間、機械と手仕事。そのあいだを毎年、行き来しながら“ちょうどよさ”を探している。
哲学者の中には、「人間の本質は“手を使うこと”にある」と語る者もいる。考えること、感じることは、手を動かす行為と切り離せない。農業はまさに、手を使い、身体全体で自然と対話する営みだ。
その営みを、完全に効率化・機械化してしまったとき、人間は自然と何を交わすのか。
畝幅を変えてみたり、播種の時期をずらしたり、わざわざ時間のかかる育苗に挑戦してみたり──そうした“非効率”の選択は、「もっとよくなりたい」という根源的な願いから生まれる。
それは、生産性という数字では測れない「意味のある手間」なのだ。
その“非効率”の積み重ねが、土を知る力になり、作物を見抜く目になり、経営に対する直感として蓄積されていく。やがてそれは、「この一瞬で判断できる」という確信に変わっていく。時間を惜しまず、無駄に見えることを続けた人にしか得られない感覚が、そこにはある。
ふと、こんなことを思う。「作業は早くなってるのに、作物との距離が遠くなった気がする」と。
確かに効率は大事だ。だが、効率化の先に“心の置き場”がなければ、作業は単なる消費になってしまう。作物を育てているのではなく、「こなしている」だけになってしまう。
それでは、なぜ農業をやるのか。
農業の本質は、「育てること」そのものにある。それは効率とは本来、相容れない営みだ。芽が出るのを待ち、根が張るのを見守り、天候に振り回されながらも粘り強く向き合う──そのプロセスが、私たちの感性を育ててくれている。
効率化が進むことで、見失いそうになるもの。それを失わないように、あえて手をかける。「手間を惜しまないこと」が、時に自分自身の感覚を守ることにつながる。そして、それが“農家であること”の誇りにもなっていく。
“効率”と“無駄”。
この二つを単なる対立軸として見るのではなく、それぞれが補完し合うものとして捉えるとき、農業にはもっと豊かな地平が広がっているように思う。
「無駄のように見える時間」を恐れず、「効率化の中に心を置く工夫」を忘れない。 「もっと早く」ではなく、「もっと丁寧に」やってみる。 数字には出ないが、確かに心に残る仕事をひとつでも多く積み重ねる。
そうすることで、農業という営みは、単なる生産行為ではなく、“生きること”そのものへと近づいていく。
それが、私が農業の中に見ている「多幸感」のひとつのかたちだ。
次回は、いよいよ最終回。 「“未来”を耕すということ──農家の多幸感のその先にあるもの」について書いていきたい。 15年農業を続けてきた中で、いま改めて思う「この先の農業のあり方」と、「私たちは何を受け継ぎ、何を残していけるのか」という問いに向き合いたい。
(第6回へつづく)