【最終回 “未来”を耕すということ──農家の多幸感のその先にあるもの】
2025/03/29
農業を始めて15年。
何度も天気に裏切られ、病害虫に泣かされ、価格に翻弄されてきた。それでも、畑に立つことをやめようと思ったことは、一度もなかった。理由を聞かれても、はっきりとは答えられない。ただ、毎年必ず訪れる春の芽吹きや、秋の澄んだ空を背にして立つ畑の静けさに、どうしても心を動かされてしまうからだ。
農業には、明確なゴールがない。 完璧な作付け計画も、100点満点の収穫も存在しない。 けれど、だからこそ「もう一度やってみよう」と思える。自然は毎年違う顔を見せ、同じようにやってもうまくいかないことのほうが多い。それでも、“また挑戦したい”という気持ちが芽吹く。その繰り返しが、人生を深く耕していく感覚をくれるのだ。
ある日、息子が畑にやってきて、土を触りながらこう言った。 「お父さんの仕事って、なんでこんなに大変なのに、楽しそうなの?」
私は言葉に詰まった。たしかに、心も体もいつもくたくただ。毎年リスクを背負い、気が抜ける暇なんてない。それでも、ふと笑ってしまうような瞬間が、確かにこの仕事にはある。
それは、自然と向き合うことの“あいまいさ”に慣れ、自分の未熟さを受け入れ、それでも前に進むと決めた人間にだけ与えられる、ご褒美のような時間だ。
笑ってしまうのは、緊張が抜けたからではなく、どこかで「これでいいんだ」と感じられたからだと思う。自然に翻弄されながらも、少しずつ積み上げてきた時間と経験が、自分の中に確かな何かを育てていたのだろう。
未来のことは、正直よくわからない。 農業人口は減り続けているし、気候変動は激しさを増している。 誰が次の担い手になるのか、技術はどう進化していくのか。
でも、たとえ世界がどれほど変わっても、土の匂いは変わらないと思う。 種をまき、芽が出て、育っていくという命のリズムは、どんな時代でも人の心を打つはずだ。
今やAIやスマート農機の話題が尽きない時代だけれど、それでも最後に畑と向き合うのは「人の感覚」だと思う。どこにどんな水の通り道があるのか、どの風が病気を呼び込むのか、それを知っているのは、土と付き合い続けてきた人の感覚なのだ。
だからこそ、私たちは「未来を耕す」ことを諦めてはいけない。 今の子どもたちが、もう少しだけ豊かな土に触れ、何かを育てる喜びを知る機会をつくっていけたら。
自分たちが築いた“多幸感”という感覚を、少しでも次の世代へ手渡すことができたら。 それは、農家にしかできない、かけがえのない贈り物だと思う。
農家の多幸感とは、楽しいとか嬉しいといった表面的な感情ではない。
たとえ失敗しても、嵐に作物をやられても、また種をまこうと思える気持ち。 静かな孤独の中で手を動かし、誰かと笑い合う一瞬に心を震わせる感覚。 そのすべてが、私たちの暮らしの奥底に静かに根を張っている。
喜びも悔しさもすべて引き受けるからこそ、生まれてくる幸福がある。何かが実ったとき、喜びが心の奥底から湧き上がってくるのは、その過程にちゃんと向き合ってきた証だ。
農業は、「生きる」ということと地続きだ。
だから、私は今日も畑に立つ。 泥をかき分け、空を見上げ、また新しい一日を耕していく。
土の中には、まだ見ぬ未来が眠っている。 それを信じて今日も手を伸ばす。
この連載を読んでくれたすべての人へ。
ありがとう。あなたの暮らしにも、土の温もりのような“多幸感”が芽吹きますように願っています。
(おわり)