主体性と放任は違う ~ラーメン屋で見た親子から考える「躾」の意味~
2026/06/07
先日、家族でラーメン屋さんに食事に行った。
どこの店にもある、ごく普通の休日の風景だった。
店内は家族連れで賑わい、子どもたちの元気な声が聞こえる。
私は子どもが騒ぐこと自体はそれほど気にならない。
子どもなのだから元気なのは当たり前だし、小さいうちは言うことを聞かないのも当然だ。
我が家も3人の子育てをしてきた。
決して偉そうなことを言える親ではない。
むしろ失敗だらけだったと思う。
だからこそ、子育ての難しさはよく分かる。
その日も隣の席には、お母さんと小さな子どもが2人いた。
子どもたちは椅子の上に靴を履いたまま立ち上がり、店内を見渡している。
食べ物はテーブルの周囲に散らばり、床にも落ちている。
正直、その光景だけなら私は何とも思わない。
小さな子どもならよくあることだ。
問題はその後だった。
お母さんは何も言わない。
「椅子の上は立たないよ」
「靴を脱ごうね」
「落としたものは拾おうね」
そんな言葉が一度も出てこない。
食事が終わっても片付ける様子もない。
散らかったまま席を立ち、そのまま帰っていった。
私はその光景を見て、正直驚いた。
子どもの行動ではない。
親の対応に驚いたのである。
子どもは何も悪くない
まず最初に言いたい。
悪いのは子どもではない。
小さな子どもは社会のルールを知らない。
飲食店でどう振る舞うべきかも分からない。
だから親が教える。
それが躾だ。
子どもは親の言葉や行動を見ながら育つ。
何が良くて何が悪いのか。
何をしてはいけないのか。
少しずつ覚えていく。
だから最初からできなくて当然だ。
むしろできないのが普通だ。
問題は、それを教えるべき大人が教えなくなっていることだと思う。
「主体性」と「放任」を履き違えていないか
最近よく聞く言葉がある。
「主体性」
学校教育でも頻繁に出てくる。
子どもが自ら考え、自ら行動する力を育てよう。
私はこの考え方自体は素晴らしいと思う。
農業経営でも同じだ。
社員に対しても、言われたことだけをやる人材より、自分で考えられる人材の方が強い。
だから主体性を育てることには賛成だ。
しかし最近、
主体性=好き勝手にやらせること
だと勘違いしている大人が増えているように感じる。
主体性と放任は全く違う。
主体性とはルールの中で自分で考えることだ。
ルールが存在しない状態ではない。
例えばサッカーだってそうだ。
手を使ってはいけない。
相手を殴ってはいけない。
線の外に出たらスローイン。
ルールがあるからこそ、その中で自由にプレーできる。
もしルールがなければ試合は成立しない。
教育も同じだ。
社会のルールを教えた上で主体性を育てる。
順番を間違えてはいけない。
躾は子どもの未来を守るためにある
最近は「叱ること」に対して過剰に敏感な社会になった。
怒るとかわいそう。
注意すると自己肯定感が下がる。
厳しくするとトラウマになる。
もちろん暴力は論外だ。
人格否定もダメだ。
しかしだからと言って何も言わないのは違う。
子どもが道路に飛び出そうとしたら止めるだろう。
人を叩いたら注意するだろう。
店の商品を壊したら叱るだろう。
なぜか。
子どものためだからだ。
躾とは親の都合ではない。
子どもが将来困らないための準備である。
飲食店で椅子の上に靴で立っても誰も注意されない。
食べ散らかしても片付けなくていい。
そんな環境で育った子どもが、ある日突然社会に出て適応できるだろうか。
私は難しいと思う。
社会は思った以上に優しくない
家庭では許されることも、社会では許されない。
学校にはルールがある。
会社にもルールがある。
農業だってそうだ。
収穫が遅れれば迷惑がかかる。
納期を守らなければ信用を失う。
必要な連絡をしなければ信頼を失う。
社会はルールで成り立っている。
それを知らずに育った子どもは苦労する。
そして一番苦しむのは親ではなく本人だ。
私は従業員を雇う立場になってそれを強く感じる。
仕事ができるかどうか以前に、
挨拶ができる。
時間を守る。
約束を守る。
感謝を伝える。
これができる人は伸びる。
逆にこれができない人は苦労する。
学歴より先に大切な部分だと思う。
親の教育リテラシーが問われる時代
昔は近所のおじさんやおばさんが叱ってくれた。
学校も今より厳しかった。
地域全体で子どもを育てる文化があった。
しかし今は違う。
少し注意しただけでトラブルになる。
学校も家庭への配慮が必要になる。
結果として、最後に残るのは親の役割だ。
だからこそ親の教育リテラシーが重要になる。
どこまで自由を与えるのか。
どこで止めるのか。
何を教えるのか。
何を許さないのか。
これはAIも学校も代わりにやってくれない。
親が考えなければならない。
子どもを育てるとは、自立を支援すること
私は農業をしていて思う。
野菜作りも子育ても少し似ている。
水も肥料も与えればいいわけではない。
放っておけば育つわけでもない。
必要な時に手を入れる。
必要な時に支える。
そして最後は自分の力で育ってもらう。
それが本来の姿だと思う。
子どもも同じだ。
何でも親が決めるのは違う。
しかし何も教えないのも違う。
大人になるまでの間に、
社会にはルールがあること。
他人への配慮が必要なこと。
感謝を伝えること。
迷惑をかけたら謝ること。
そういうことを伝える必要がある。
子どものために叱れる大人でありたい
あの日ラーメン屋で見た光景は、単なる一組の親子の話かもしれない。
たまたま疲れていたのかもしれない。
事情があったのかもしれない。
だからその親を責めたいわけではない。
ただ、今の社会全体が少しずつ「叱れない社会」になっているような気がしてならない。
子どもに嫌われたくない。
周囲から批判されたくない。
面倒なことになりたくない。
そんな空気が漂っている。
しかし本当に子どもの将来を考えるなら、言うべきことは言わなければならない。
主体性は大切だ。
自由も大切だ。
個性も大切だ。
しかしその土台には必ず守るべきルールがあり、躾が必要である。
躾のない主体性は、ただのわがままだ。
ルールを知らない自由は、ただの無秩序だ。
だから私は思う。
子どもの未来を守るために。
嫌われてもいい。
その場で泣かれてもいい。
言うべきことは言う。
怒るべき時は怒る。
そして最後には抱きしめる。
それが親の役割なのではないだろうか。
主体性を育てることと、躾を放棄することは違う。
私たち大人は、その違いをもう一度考える時期に来ているのかもしれない。